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きょう聖(ねこミミ)

きょう聖(ねこミミ)

ニセ法主・阿部日顕

2006年10月7日 17:24:07

『続・法主詐称』鳳書院 憂宗護法同盟著)より

学会の破壊を目論んだ阿部日顕、その拭えない「ニセ法主」疑惑

 創価学会の解体を目論んだ、日蓮正宗67世法主・阿部日顕。 しかし日顕は、その法主の地位を自己申告だけで盗み取った「ニセ法主」であるという。

 これはなにも、今になって騒がれている話ではない。 日顕「ニセ法主」疑惑は、日顕が登座した直後から、宗内外で、時には側近の口から、時にはマスコミ(主な情報元は山崎正友)により囁かれてきたことである。


 日顕は、昭和53年4月15日、先代の日達法主と2人きりの場で「相承」(引き継ぎ)を受けたと、日達法主が急逝した直後の昭和54年7月22日、突如として述べた。

 しかし、宗門の歴史の中で、「内密」に相承が行なわれることなど、まずありえない。 先代も先々代の法主も、相承にはお仲い(秘書)を立ち会わせるなどし、儀式が終われば、すぐにでも宗内外に通達している。

 しかも、日顕「本山の大奥で相承を受けた」とする日の日達法主のスケジュールには、相承については何も記されていないだけでなく、大奥で相承をしたはずの日達法主が「午前11時」には東京へと向かっていたことが記されていた。 さらに、午前11時までの時間にも、当日が誕生日であった日達法主に、数多くの来客が訪れており、とても相承する時間があったとは考えられない。

 なにより日顕は、いまだに相承の物的証拠となる「相承箱」を、内外に示せないでいる。その日顕「ニセ法主疑惑」が原因で、宗門は改革僧侶への寺院明け渡し請求裁判で“3回もの敗訴”を重ねている。(妙道寺〈愛知・中島法信住職〉、常説寺〈岩手・山本辰道住職〉、大経寺〈神奈川・渡辺慈済住職〉、全て確定済み)

 日顕が本物の法主だという証拠がないために、日顕による寺院の明け渡し命令は「不当な請求」であると断じられたのである……。


 日顕「C作戦」が失敗すると、当座直後から自らの「法主詐称疑惑」を週刊誌などに流した、不倶戴天の敵である山崎正友と、学会攻撃のためだけに手を結んだ。そして何を考えたか、山崎の日顕は正真正銘の法主”“立派な人格者”などという発言を、檀徒グループ「妙観講」が編集する機関紙『慧妙』で大きく報じさせた。

日顕の相承を否定していた山崎が相承を認めれば、自らの「法主詐称疑惑」を払拭できるとでも思ったのだろうか。

 しかし、山崎正友「恐喝犯」である。 凶悪な恐喝事件で懲役3年の実刑判決を受け、判決文では50箇所近くも「偽証」「虚偽の証拠」などの“ウソ”を糾弾された、日本の裁判史上でも稀な“大ウソつき”である。

 そのような「裁判所公認の大ウソつき」に、自らの相承を認めてもらわなければならない日顕の姿は、事情を知る者から見れば、断末魔の足掻きにしか見えない。

 そもそも「小欲知足」を旨とし、「和合僧」を重んじた宗開両祖の御精神に、「遊蕩、贅沢」に耽り、「広布の破壊」を目論んだ日顕が背いているのは明白である。 無論、法主の資格がないのは、言うまでもない。

一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事(御書1618ページ)

一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦のよう犯有りと雖も衆徒に差置く可き事。(御書1619ページ)


 たとえ法主であろうと、信心の無い者、仏法に背くものを用いてはならない。 ましてや「ニセ法主」など。

『創価新報』2006年10月4日付

詐称 ウソで固めた阿部日顕 〈上〉

相承

前法主の急逝に乗じて――
二人だけの儀式をデッチ上げ
宗内欺き26年間も居座る


“作り話”はことごとく崩壊
宗史から抹消、除歴免れず


 詐称――自らを偽るという、人間として最も忌むべき行為の一つである。ところが、聖職者の仮面をかぶり、二重、三重の詐称しているのが阿部日顕(83)だ。日顕という存在は、ウソと偽りで塗り固めた“虚像”である。数々の詐称の第一、それが自身の相承をめぐる大ウソなのである。

宗規に照らしても資格なし

 宗門の宗規は「法主」について、こう定めている。

 「法主は、宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し……」(第7条)

 「相承」を受けている者に法主の資格があるというわけだ。

 ところが、67世を名乗っていた阿部日顕は、前任の日達法主(66世)から相承を受けていない。ということは、法主の資格がない。にもかかわらず、作り話をデッ仕上げて、26年間の長きにわたり居座り続けたのである。

 昭和54年7月22日、日達法主の急逝に乗じて法主になった日顕。その1年前の53年4月15日に、二人だけの場で相承を受けたというのが日顕の言い分だった。しかし、この“二人だけの場での相承”とやら、日顕「あった」と言い張るだけで、それを裏付ける具体的な証拠は何一つない。

一つの証拠も証人も示せず

 まず、53年4月15日に大石寺の大奥で相承を受けたと言い張る日顕だが、再三問われ続けている素朴な疑問、すなわち、その日の「何時から」、大奥の「どの部屋で」儀式が行われたのかという、基本的な問題に、26年間もの間、明確に答えられないのである。

 何も、相承の儀式の内容を聞いているのではない。こんな簡単な質問になぜ答えられないのか。内付だろうとなんだろうと、その儀式が実際に行われたのであれば、それが「何時から、どこで」ぐらいのことは、答えられるはず。要は日顕のスケジュールを明らかにすれば済む。ところが、それができないのだ。

 また、憂宗護法同盟によれば、本来、相承を受けた法主の手元にあるべき「相承箱」日顕のところにはなかったという。

 箱の所在について、同盟は日達法主の側近だった菅野日龍(東京・大宣寺)が「箱は大宣寺にある」と近しい人間に語っていたとも指摘した。

 これに対し日顕「御先師よりお承けした『御相承箱』は、総本山内の然るべき場所に常時厳護申し上げてある」(平成17年7月22日の「院達」)、「相承箱は、日達上人からお受け申し上げいただいて、そしてしかも、それから一歩も御宝蔵から、外に出ておりません」(同年8月21日の目通り)とごまかすだけで、具体的な所在を明確にできなかった。

 さらに日顕が受けたという相承には、公式の「記録」が何一つ残っていない。

 日顕は、自身の相承問題について正信会が騒ぎ始めた頃、本山在勤教師を前に「自分の日記には4月15日に相承を受けたと書いてある」と強弁したこともあるが、その後の裁判の場をも含めて、「日記」は影も形も現れていない。そして、「証人」もいない。

 なお、登座から25年も経って、相承の日に内事部付玄関に入る日顕を目撃したなどという“証人”楠見慈調が現れたが、あれだけ苦しんだ正信会裁判の時に出てこないで、憂宗護法同盟等から厳しく糾弾されるや、こんなことを言い出したこと自体からして、証言の信憑性はゼロ。

しかも、楠見本人が近視で、そんな証言能力がないと指摘されたのだから、作り話は完全に破綻というわけだ。

“総括を恐れいまだウロウロ”

 相次ぐ追及に、日顕の御用紙「慧妙」もお手上げ。「公にすることなく、内々に行うから『内付』なのであって、その状況を余人が知りうるわけがない。周囲の状況から類推するしかないではないか」(平成16年2月1日付)と開き直るしかなかった。これでは、証拠も証人もいないと認めているも同然ではないか。

 “親衛隊”からも、弁明不能とさじを投げられてしまったのだから、お笑いである。

 逆に、日顕が相承を受けていないことを浮き彫りにする出来事は枚挙に暇がない。

 まず第一に、日顕が相承を受けたと言っている53年4月15日、授けたはずの日達法主のスケジュールを検証すると、多忙な一日で、そんな厳粛な儀式を行う時間的な余裕など、まったくなかった。

 また、1年も前に相承を受けたはずの日顕が、日達法主急逝直後、遺族に対し、「あとのこと」すなわち相承について「君たち聞いているか?」と尋ねているのだ。本当に自分が相承を受けていれば、こんな質問はまったく必要なく、「後は私です」と明言するはずだ。

 さらに、日顕登座当時、重役だった椎名日澄が後に重大な発言をしている。

 「猊下(日顕)の大変だねえ。ただ自分がそう言うだけで、相承を受けたという証拠が何もないんだから」

 日顕登座が決まった3人だけの重役会議の出席者の一人で、仮通夜の席で日顕登座を発表した人間でもある椎名のこの発言は限りなく重い。

 また、相承を受けたという日のわずか2カ月前の53年2月7日、日顕は盟友の河辺慈篤に対し“日達法主は話にならない”と侮蔑の言葉を漏らしている。

 一方の日達法主も同じ年、「阿部はとんでもない」「阿部はダメだ」「阿部は信用できない」などと日顕への不信を周囲に漏らしていた。こんな関係で、相承などあるわけがない。

 そのほかにも、相承を受けたはずが能化にも学頭にもなっていなかったこと、日達法主急逝直後に、大慌てで日号を変更したことなど、1年前に相承があったとは到底考えられない事ばかり。

 これでは信用してくれという方が無理な話だ。もはや、詐称法主・日顕一代で宗門はズタズタにされた。それも当然だ。ニセ法主の次は何代続こうが全員がニセモノでしかないからだ。

 猊座を降りて半年以上が経つというのに、いまだに法主・日如の周りをウロウロしている日顕。本山での行事の際には、わざわざ自分の徒弟を集めて存在感を示すのに躍起だ。

 それは、自身の姿が見えなくなった途端に始まるであろう、厳しい“総括”への恐れの裏返しでもある。だから、退座しても、第一線から消えることができないのである。

 しかし、こうして改めて明らかなように、67世法主を名乗っていた阿部日顕が、相承を受けていないことは動かしがたい事実である。つまり、日顕は法主の資格がなかったにもかかわらず、法主と称して数多くの信徒をだまし、欺いたのである。

 過去、経歴を詐称した国会議員は、失職、議員辞職などによってその存在が政界から抹消されている。これが、詐称の果てである。

 法主ではない人間が、法主と名乗っていたことが明らかになった以上、その人間のの名もまた宗史から消す以外ない。それが「除歴」である。



『創価新報』2006年5月3日付

日顕宗の『続・デタラメ本』を笑う 2

相承なきニセ法主
日顕こそ“六師外道”の末流


 「デタラメ本」の中で、最も多くのページを割いているのが、この相承疑惑に関する弁明だ。

 よほど、「ニセ法主」の汚名を払拭したいのだろう。ところが肝心の中身は、今回も問題の核心には一切触れずじまい。“苦し言い逃れ”に終始するだけのお粗末極まりないものだ。

 疑惑を晴らしたいならば、日顕が相承を受けたという昭和53年4月15日の「何時から」「何処で」「どのように」相承を受けたのかを具体的に示せば済む話なのだが、いまだにそれが出てこない。

 それでいて、「新・教宣ハンドブック」で、戸田第2代会長の「(釈尊を誹謗した)連中が死ぬと、今度は日蓮正宗のなかに生まれてくる」などの言葉を引き、日顕こそが「六師外道の末流」であると断じたことに対して、“当時の僧侶を指弾しただけで、現在の法主には一切関係ない”などと、話の真意をねじ曲げ、グダグダと稚拙な言い訳を展開している。

自己申告で“盗座”
証拠も証人も示せず敵前逃亡


 証拠も証言も記録も何もない、ただの自己申告で奪い取った猊座であるがゆえに、今回もくだらないご託を並べて、それを強弁するしかない日顕

 「血脈相承は、御法主上人から次期御法主への唯授一人の秘伝であり、お二人方以外の者が立ち入ることはできない」「(相承は)第三者による証拠や記録や証人などがなければならないという性質のものではありません」などと述べているが、これでは、相承の事実が証明できないことを、自ら宣言しているようなものである。

 たとえば近年でも、日昇法主から日淳法主、日淳法主から日達法主への相承の際は、記録が克明に残されているではないか。それらが「何一つない」ほうがよっぽどおかしいというものだ。

 しまいには「血脈相承に関する疑難の一々に対して、宗門がまともに返答する必要などまったくない」などと言い出し、“とんづら”を決め込むありさま。まるで“敵前逃亡”ではないか。

所在不明の「箱」
早瀬への相承でも出せずじまい


 憂宗護法同盟から追及された相承箱の所在については、「本山のしかるべき場所に常時厳護申し上げてある」と、これまでの言い分を繰り返しているにすぎない。

 本当に本山のしかるべき場所にあるというなら、今回の日顕から日如への相承の際に、「相承箱」を持ち出し、このことを記録に残せば、箱の所在を証明する最高のチャンスだったではないか。

 ところが、それもできずじまい。

 苦し紛れに出てきた“平僧や信徒が軽々に論ずるべきではない”という発言も、むなしいばかりだ。

 そのほかの疑惑についても、歯切れが悪い。

 たとえば、日顕「能化」になっていない言い訳では、「法主は、必要を認めたときは、能化のうちから次期の法主を認定することができる。但し、緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することもできる」との宗規を引用し、「緊急やむを得ない場合」であれば、能化でなくても法主になれると主張している。

 しかし、日顕が相承を受けたという昭和53年4月15日の時点で、日達法主にとって何が「緊急やむを得ない場合」だったというのか。具体的にどのような事態にあって法主の交代に至り、いかなる理由で日顕が選出されたのか、明確に説明したらどうか。

山崎正友との結託
“相承を認めてくれ”と何度も平伏


 山崎正友との関係についても、あれだけ口汚くののしられた山崎を、“謗法を懺悔し、正しい信仰に復帰した”などと突然持ち上げているのだから、飛んだお笑い草だ。

 これまでも日顕は、何度も山崎に泣きついてきたではないか。

 たとえば、山崎が恐喝事件で刑務所に入る平成3年2月の直前、正信会の浜中和道によれば、山崎は浜中にこう言っている。

 「阿部さんから、『頼むから俺に相承があったことを認めてくれ』って、いってきたんだ」

 また、平成14年の夏には、日顕の使いとして、息子の信彰が山崎と会い、“オヤジの相承を認めてくれ”とひれ伏している。こんな関係だから、ハンドブックでは、山崎が日顕「指南役」だと言っているのだ。

 今回の『デタラメ本』では、「750年の歴史のなかで、『除歴』された歴代上人はひとりとしておられません」などと言っているが、750年の宗史に類を見ない極悪法主が日顕なのだから、これまではどうであれ、除歴が最もふさわしい。

 日顕の裏の裏まで知り尽くした河辺慈篤は言った。

 「アレ(=日顕)は、除歴しなきゃならん。67世は、いないんだ!」



『創価新報』2006年9月20日付

創価の正義と真実を語る 9

会長 秋谷栄之助

識者 池田先生は「対話の達人」
幹部革命から座談会革命の大波を!


極悪の打倒に極善は発展!
ニセ法主から逃亡→生き地獄の日顕


「対話」を見れば「人物」が分かる

 「大変感動しました。池田先生は対話を中心にスピーチをされるとうかがっていましたが、何千人の人を前にどのように対話をされるのか、と不思議に思っていました」

 中国思想研究の第一人者、ハーバード大学のドゥ・ウェイミン教授は率直に感嘆する。

 対話の実像は、そのまま人間の度量である。

 対話の奥行きは、そのまま人生の価値である。

 創価大学での入学式。池田先生は一人の学生に目をとめ、声をかけられた。

 「どこから来たの? どうして創価大学にきたの? 兄弟は? 将来は何になるの?」

 はっきり答えられない様子である。スピーチの間の先生は、何度も声をかけられた。徐々に、彼の心が開かれていくのが分かった。最後には立ち上がり、元気に返事をするまでに。先生との対話に一人が立ち上がった。

 否、一人ではない。皆が感動した。皆が奮い起った。皆が先生と「一対一」であった。

 「座談」とは「一人」から始まる。

 「一人」から「全体」へと広がる。

 ゆえに学会の広宣流布運動は、常に座談会から起爆し、座談会へと帰結する。

 ドゥ教授は池田先生の「座談」「深い人格」「心の大きさ」を垣間見、絶妙の「対話」に感動した。

 「対話を通して学生の心が開かれていきました。心が開かれていけば、大切な話が正しく学生にも伝わっていくものです」「まさに池田会長は対話の達人であります」と。

 池田先生が繰り広げてくださった世界の識者との対話は、今や1600回を超える。いわば「世界第一級の座談会」である。先生が、事実の上で広宣流布を前進させる「座談会の真髄」を示してくださっているのである。

 「学ぶことを止め、他人に教えるのだ、との傲慢な態度を持つ人間や文明は、やがて衰退していく」「人間は師匠の存在があってこそ、深く人生を学ぶことができる」とドゥ教授は言う。

 座談会革命とは「幹部革命」にほかならない。弟子の鍛錬の主戦場こそ座談会である。

「ニセ法主」に翻弄される宗門

 「相承を受けた以上は生身の釈迦日蓮」

 日顕宗ではこう言う。この狂気じみた愚劣な思い上がりの権威主義こそ、日顕である。

 大聖人の御在世当時、宗教者といえば「生き仏」であった。呪術めいた神秘の衣で我を飾り、庶民の現実生活とは隔絶した権威の座に胡坐をかき、陰で人々を誑かし、操った。

 「宗教のための人間」ではない。

 「人間のための宗教」である。

 ゆえに大聖人は、立正安国論を著され、痛烈に、似非宗教者たちの化けの皮を剥ぎ取った。

 すなわち、人間と宗教との主客転倒を正す「宣戦布告」

 その武器として掲げられたのか、立正安国論を貫く「対話」なのである。

 対話の人か、権威の虜か――。

 聞く真心か、頭ごなしの傲慢か――。

 育てる慈悲か、使い捨てる冷酷か――。

 「人への振る舞い」の実相が「何のための己か」を明瞭に照射し、峻別する。

 そもそも日顕の遊興堕落の「法盗人」ぶりを見るがよい。

 海外のテレビでさえ「阿部日顕は妻を娶って子どもを生ませ、肉を食らい、酒を飲んでいることから『花和尚』呼ばわりされている」と報じるほど、芸者遊びや温泉豪遊、海外旅行など、派手な遊興は有名である。

 親教と称して地方にでかければ、その地の高級旅館の最高の部屋、ホテルならスイート、1泊20万円以上に宿泊する大名貴族気取りである。

 しかも「少欲知足」どころか、法主を辞めても東京都内の一等地に、総額10億円もかけた豪邸暮らし。大石寺の専用の坊も自分好みに造り替えさせた。

 しかも、普段は丑寅勤行さえ出ないのが、供養が見込める時だけ、しゃしゃり出てくる。

 遠くから大石寺に来る坊主は電車賃にすら事欠く有様なのが、日顕と政子は、いまだに運転手付きで高級車を乗り回している。

 日顕は平成14年、7年後までに信者を倍増しろと激を飛ばした。そしてノルマだけを他人に押しつけ、自分はさっさと逃げ出した。

 要は自分が辞めた後でも食っていけるだけの「喰い扶持」の確保が狙いだったのである。

 そんな日顕が今年に入って何とこぼしたか。

 「ついつい言ってしまったけど、できるかな?」と。こんな無責任な話はない。

 命令、ノルマ、口から出任せ――愚劣な一人の放言が宗門の大方針になる。それで坊主も信者も、煽られ、搾られ、疲弊しきっているのが今の宗門なのである。

 立正安国論には仰せである。

 「常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪嫉を懐く」(御書21ページ)――似非坊主は、自ら生き仏を演出する裏で、その内心には欲望と嫉妬が渦巻いているのである。

御本尊も「道具」扱いの謗法日顕

 「戒壇の御本尊のは偽者である。種々方法の筆跡鑑定の結果解った」

 昭和53年、河辺慈篤と面談した日顕は言い放った。この驚愕の事実は河辺の克明なメモにより発覚した。

 どれほど傲慢か。どれほど不遜か。恐るべき大謗法である。結局、日顕は御本尊を「信徒支配の道具」としか考えてはいない。

 堀日亨上人は明言している。

 「御本尊様も本当に日の目を見たのは、学会が出現してからだ。学会のお陰で御本尊様の本当の力が出るようになった」と。

 その学会がなければ、いくら拝もうが、宗門の信心に功徳がないのは明々白々である。

 さらに日顕は平成元年、禅寺に先祖の墓を建立し、自ら開眼供養まで行っていた事実まで発覚。また同7年には身延の坊主を大石寺に引き入れ、宗門の坊主や信者までもが身延の寺巡りに興じていたことも明らかとなった。

 日蓮大聖人の「謗法厳誡」の御精神、日興上人の「身延離山」の御精神を、日顕は完全に踏みにじった。所詮、日顕「御本尊」「御本仏」も、微塵も敬ってなどいない。

 立正安国論には仰せである。

 「邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」(同21ページ)――似非坊主には「信心」など毛筋もない。結局、「自分だけが正しい」「自分が一番」なのである。

「相承を認めて」

 「頼むから、オレに血脈相承があったってことを認めてくれ」――日顕は平成3年、あの極悪ペテン師の山崎正友に、こう懇願していた。ほかでもない山崎自身が、当時の中間に自慢げに吹聴していた事実である。

 かつて、山崎は日顕が法主の座を盗み取った昭和54年当時、こうも言っていた。

 「あの野郎が猊下なものか。知ってるでしょう。日達上人が亡くなる前には、あいつには相承する気がなかったってことは」「あの野郎は、俺がそのことを知らないと思って、法主面しやがって、今に見ろって言うんだ」

 そして週刊誌を使って「およそ法主にふさわしくない野心家であり、乱れた生活」「相伝をいつわって登座」「まことに信仰心のうすい、功利主義の権化」「独裁者」「宗内で一、二を争う遊とう児」「ゼニゲバ」云々と、さんざん日顕に罵詈雑言を浴びせかけていた。

 ところがである。日顕は山崎に無様にひれ伏し、「相承を認めてくれ」と懇願した。まさに「法主詐称」の何よりの証拠ではないか。

 日顕によって宗門は完全に死滅した。「ニセ法主」から「ニセ法主」へと「ニセ相承」――まさに日顕宗」と堕したのである。

 しかし、仏法の因果は厳しい。

 今や法主の座を逃げ出した日顕。しかし「法主泥棒」のツケは、永遠に日顕を責め苛む。

 この夏の教師講習会、普通なら法主の日如がやるべき講義を、隠居の身であるはずの日顕がしゃしゃり出て担当した。

 クーデターが起こりはしないか。自分の老後は大丈夫か。除歴(=歴代法主からの抹消)されはしないか。息子は法主になれるだろうか……。日顕は気が気でない。日顕は法主を辞めても地獄、死んでも地獄、である。

 立正安国論には仰せである。

 「今の世には性心を労し来生には阿鼻に堕せん」(同33ページ)――似非坊主には、生きては「生き地獄」、死んでは「阿鼻地獄」が待っている。

不知恩を粉砕してこそ真の報恩

 大上人は、痛烈に弾苛された。

 「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」(同21ページ)

 極悪の打倒なくして極善の隆昌はない。

 極悪とは、民衆を誑かす流言飛語である。

 極悪とは、民衆を食い物にする忘恩である。

 極悪とは、民衆の敵を放置する傍観である。

 不知恩の裏切り者と戦い倒さずして、真の報恩ない――こう厳しく銘記する。



『創価新報』2005年8月3日付

除歴への怯え 1

相承詐称の大罪

権力欲、名誉欲に狂い
作り話で、猊座乗っ取り
26年、何一つ証拠示せず


不惜身命の弘通こそ法主の責務
日顕は宗開両祖を大冒涜


写真 日達法主逝去の朝、日顕の導師で行われた「枕経」(昭和54年7月22日)。謀略をめぐらせた日顕は、作り話で猊座を盗み取った

老醜日顕、82歳の懊悩

 猊座にすがりついて26年、もはや老醜をさらすばかりの阿部日顕(82)。その日顕が最も怯えるもの、それは自らの死後に「除歴」処分である。一代で宗門を滅茶苦茶にした日顕“除歴まぬがれぬ身”であることは、宗開両祖に真っ向から反した数々の“罪状”から明らかである。宗門中興の祖として名を残すことを目論んだつもりが、大汚点として歴史から抹殺される――今、誰よりもこの重圧に苛まれているのが老い先短い日顕本人なのである。阿部日顕という男がどれだけ「反日蓮」「反日興」の限りを尽くした大悪人であるのか。新連載「除歴への怯え」、第1回は相承詐称の大罪を糾弾する。

自己申告だけで“盗座”

 宗門700年の歴史の中で、謀略をめぐらし、作り話で猊座を盗み取った法主は、67世を名乗る阿部日顕ただ一人であろう。

 昭和54年7月22日、日達法主急逝のドサクサの中だった。後継候補と目されていた早瀬日慈をだまし討ちにし、あれよあれよという間に、自己申告だけで法主になった。

 1年前の53年4月15日に二人きりの場で相承を受けたというのも、まったくの作り話だった。日顕登座を発表した椎名日澄(当時重役)も「相承の証拠が何もない」と漏らすほどだ。

 相承を受けた法主の手元にあるはずの「相承箱」についても、いまだにその所在すら具体的に明言できないのだから話にならない。

 何よりも、猊座についた動機が、信徒支配の「権力欲」、親子二代の法主として名を残したいという「名誉欲」という、信心とは無縁の不純極まりないものだった。

 この日顕“盗座”が、いかに宗開両祖の精神とかけ離れたものであるか。それは、大聖人から日興上人、日興上人から日目上人という、宗門の相承の「原点」に照らせば一目瞭然である。

大御本尊を「偽物」と断言

大聖人から日興上人への相承。その基本原理は、弘安5年(1282年)の「身延相承書」「池上相承書」の二箇相承に明白である。

「身延相承書」において、大聖人はこう告げている。

「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本文弘通の大導師たるべきなり」

 つまり、日興上人は大聖人の「一期の弘法」を付属された「本門弘通の大導師」なのである。“弘通のリーダー”であることが、大聖人から日興上人への相伝の本質であった。

 また、「池上相承書」では、「身延山久遠寺の別当たるべきなり」と、広布の拠点としての久遠寺の別当職を授け、弘通のリーダーとして教団を引きいていくことを重ねて告げている。

 すなわち、弘教のリーダーとして具体的に布教を進めることこそ相承の証なのだ。

 では日顕はどうか。

 折伏弘教も何もせず、遊蕩、堕落の限りを尽くしているだけ。

 しかも、世界広布という宗祖の御遺命を現実のものとした。仏意仏勅の団体、創価学会を自らの嫉妬で破門、除名するという、まったく正反対の所行である。

 一方、日興上人は三祖日目上人に対して、「日興跡条条の事」にこう記している。

 「日目は十五の歳日興に値て、法華を信じて以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の義なし」

 58年間、何の過ちもなく師弟の道を貫き通した――これが日目上人を自らの後継とされた日興上人の心だったのである。

 では日顕はどうか。

 日顕が相承を受けたと言っている昭和53年ごろ日達法主は周囲にこう言っていた。

 「阿部はとんでもない」

 「安部はだめだ」

 「阿部は信用できない」

 弟子に任ずるどころか、日達法主が日顕をまったく信用していなかったことは明らかだ。こんな関係で相承などあるはずがない。

 現に相承が済んだはずの同年夏にも日達法主は「跡がいないんだよ、跡が……」と後継を決めかねている胸の内を近しい人に吐露している。

 さらに日顕の方も53年2月、盟友の河辺慈篤に“猊下は話にならない”と漏らしているのだから、なおさらだ。

 しかも日顕は、宗門教学部長でありながら、肝心の相承されるべき法体である「戒壇の大御本尊」「偽物」と断じた。背徳者だった。これでは唯授一人などあろうものではない。

 ちなみに碩学の名高い59世日亨法主は昭和26年夏に次のように述べている。

 「口伝なるものは完器にして、初めて可能なんじゃ。破器・汚器の者であれば、猊下と雖も何にもならん」

 口伝というのは、ひっくり返ったに漏れたりする、いわゆる覆・漏・汚・雑のない完全な器の人物であって初めて出来ることであって、破れた器や汚れた器の者は、たとえ法主になっても何にもならない――。日亨法主らしい、実に明快な発言である。

 そもそも日達法主からの相承を詐称している日顕には口伝などあるはずもない。さらに、仮に宗門の言う「法主から法主へ」「一器から一器の」口伝なるものがあったとしても、「完器」どころか、日顕のように、信心もなく遊びで汚れきった破器・汚器では“法水”など保たれるわけがないのである。

日顕『背き了んぬ』

 日興上人の「弟子分帳」。これは大聖人滅後16年に書かれた記録で教団初期の弟子たちの信仰の変遷が克明に認められている。

 この弟子分帳に、この者もあの者もと記された、「但し今は背き了んぬ」「但し聖人御滅後背きおわんぬ」の文字。厳格な日興上人は、大聖人の正義と自らの法門を明らかにするために、背反者を明確にするし、その名を後世の歴史に刻印した。これが師匠である宗祖大聖人を裏切った者への厳しき“烙印”であった。

 法主というものは、大導師という言葉通り、教団の先頭に立って法を広める責務があろう。それは「不惜身命」、まさしく自らの命をなげうって成し遂げるものであることは、宗開両祖の生涯からも明白である。

 相承とは本来、その広宣流布に挺身する誓いであるはずだ。ところが、、嘘で固めた日顕“盗座”は、宗開両祖の精神に真っ向から違背、否、宗開両祖に対する大冒涜である。

 いつ、どこで、どのように相承を受けたのか――。日顕は全く答えることができないままだ。山崎正友からも、「地位の主張は、主張するものによって立証されるべき」として、「(相承の)に日時、場所、いきさつ(日達法主の)お言葉の内容、証人がいればその証言、そして、重役会議の内容等」を明確にするよう迫られているが、作り話で猊座を盗んだことに対する後ろめたさに苛まれ続けた26年間なのである。そして日顕はこのまま、何一つ自らの相承を立証できないまま死んでいくことになる。こんな法主が「除歴」に値するのは当然だろう。つまり、この相乗詐称の大罪こそ、日顕が除歴される最大の因なのである。

 総監、重役などの人事により、ポスト日顕“後継問題”が宗内でも語られ始めた。世田谷の豪邸を和風に立て替えていることも“隠居所”の憶測を呼び、退座さらに現実味を帯びている。

 次が誰であろうが、日顕自身が生きている間や、死後もその影響力が残っている間、すぐには除歴になることはなかろう。

 しかし、数十年後、少しでも道理の分かる人間が法主になった時には、これだけ宗開両祖に弓を引き続きた日顕「除歴」となることは明らかだ。

 いかにもがこうとも、自業自得、還著於本人。67世阿部日顕が、宗開両祖に「背き了んぬ」との烙印を押され、宗門から永久追放をされることは間違いないのである。





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